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Sunday, December 25, 2011

大阪市営百年物語

明治22年(1889年)4月1日、大阪市が市制施行されました。当時東西南北4区で面積15.27km^2、人口約47万人という規模でした(出典:大阪市営交通90年のあゆみ)。当時まだ江戸時代の狭い街路に町屋が隙間なく建つ近世都市でした。都市交通としては狭い街路を疾走する人力車が主力という時代です。

1872年の大火で消失し、大規模区画整理で維新のシンボルを兼ねて洋風の煉瓦街として復興した、銀座を中心とする中央通りに鉄道馬車が走った東京とはかなり異なった状況で、当時のありふれた地方都市のそれと大差ない状況だったと言えます。

明治36年(1903年)になると変化が現れます。3月1日に大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれ、それと前後して新たな都市交通機関が登場します。1つは梯子状に張り巡らされた運河を航行する大阪巡航船(石油発動機動力のポンポン船)であり、同年9月1日に、大阪市電の花園橋―築港桟橋間5kmが開業します。これは二重の意味でエポックメーキングな出来事でした。

徳川幕藩時代の商都大坂は、堂島川沿岸の回船問屋の集積から始まったのですが、明治開化以後の近代都市大阪の原点は、この築港事業に負うところが大きいのです。殖産興業の号令の下、貿易が奨励されたものの、明治時代にはいわゆる近代港湾はまだ未発達でした。その中で将来を見据えて市域拡張(58.45km^2)と同時に国際貿易港として近代港湾を造成する事をまちづくりの起点に据えた事業と言え、後に「東洋のマンチェスター」の称号を得る大阪のベルエポック時代を築く礎となる戦略的な先行投資だったと言えます。

そしてその新しい港へ向かう新しい乗り物として市電が産声を上げたのですが、幾つかの点で他都市の市街電車とは異なった特徴があります。他都市では民間事業として始まった市街電車事業ですが、大阪は当初から市営だったことが特筆されます。地方公営交通のパイオニアだったわけです。自治体による公益事業は、民間のような営利目的とは異なり、事業収益は街路整備や電気、ガス、上下水道などのライフライン整備、公園や公立学校の整備などに還元され、税収以上の事業規模でインフラ整備を行う、ある意味大阪モデルと呼ぶべき地方行政モデルを生み出したという意味で画期的な出来事でした。これは同時に都市交通を都市計画に反映させて計画的に整備するスタイルの確立でもあり、その後他の都市も追随することになります。

余談ですが、開業時から市営だった大阪市に対し、他都市はほとんど民営でスタートしています。東京の場合は東京馬車鉄道が電化して転身した東京電車鉄道、民間資金を集めて新規参入した東京市街鉄道、青山―川崎間のインターアーバンを目指した東京電気鉄道(外濠線)の3社時代を経て東京鉄道に統合された後に東京市に買収されたのが明治44年(1911年)で、今年都営交通100周年として荒川線に花電車を走らせたりしていますが、公営交通としては大阪に遅れてのスタートでした。同様に横浜も名古屋も京都も神戸もスタートは民営で、まちづくりと一体で整備された大阪市電とは歴史過程がかなり異なります。

開業当時の市電は全線単線で、中間の電気鉄道事務所の待避線を使って交換しながら、花園橋と築港桟橋の双方から30分間隔の時隔法運行とする運行スタイルでした。時隔法自体は軌道(tramway)では標準的な運行管理スタイルで、鉄道(railway)のように線路を一定区間ごとに区切って1列車しか走らせないといういわゆる閉そくとは全く別物です。tramwayはあくまでも道路の付帯設備であって、実は古代ローマの石畳の遺構でも、ローマ時代の馬車の車輪間隔と一致するくぼみが見られるなど、むしろrailwayよりも人類史上は古い存在です。都市交通として多数の馬車を走らせれば、ゴムタイヤのない時代の道路の轍掘れは相当大きかったと推察されますが、そうしてデコボコになった路面では、馬車の通行に支障となるのは明らかで、逆に石畳にくぼみをつけて馬車の通行を助けると共に、道路のメンテナンスを軽減するのは、ある意味自然な知恵です。

道路交通の一部であるtramwayは、当然ながら御者に相当する運転士の目視による安全確認が大前提ですから、単線でも通票交換などは行わず、起点を時隔法で出発して交換の待避線では対向電車を待つという単純な方法での運行管理でした。ただしこれでは都市交通として求められる多頻度運行は無理なのですが、市電の路線拡大は街路整備と並行して進められ、当然のように複線化が行われ、運行方向が固定されれば問題は解消します。こうして大阪は急速に近代都市としての体裁を整え、市電の路線網拡充と共に、民間事業の巡航船を廃業に追い込むに至り、大正14年(1925年)には市域拡張で13区、181.68km^2、人口2,114,804人で当時国内最大の大都市となりました。

とはいえバス事業に関しては、東京と同様に民間事業者に先を越されます。まず市電開業と同年の1903年、勧業博向けにアメリカから持ち込まれた蒸気バス2台で梅田―恵美須町間で営業を始めたものの、縦型ボイラーで轟音を立てながら走る低性能且つ取り扱い困難な代物だったために、ほどなく廃業します。ライバルの低性能に助けられた形ですが、1924年には大阪乗合自動車によるガソリンバスが運行開始し、市バスは昭和2年(1927年)に阿部野橋―平野間で運行開始するも、都心部への路線は1929年にやっと認可され、民営の青バスと市営の銀バスのサービス合戦となり、市電の営業基盤を侵食し、1932年には市電は赤字転落となります。この状況が解消されるのは、1940年、陸上交通事業調整法に助けられて青バスを市が買収する形で実現します。

一方、都市規模の拡大で市電とバスだけでは早晩行き詰ると見られていたため、1926年には地下鉄計画を市議会で決定し、1927年には4路線54.48kmの特許取得。緊急整備路線として南方―あびこ間を選定、うち梅田―心斎橋間3.1kmを第1期工事として着手しました。この地下鉄事業でも大阪流の独自性が見られます。

地下鉄事業も街路整備と一体で行われ、南北の幹線ルートとして御堂筋が整備され、その地下に地下鉄を通すということで、道路に付帯するということで、準拠法規を軌道法としました。鉄道事業法の前身の地方鉄道法では、鉄道省の免許で事業着手が可能となりますが、これは鉄道省が鉄道施設法に基づいて整備する路線は、国の現業機関としての権限行使なので、それに抵触しない事業であることと、事業としての採算性や事業者の資格要件に問題がないかを審査して免許を交付するという法体系ですが、軌道法では道路を所管する内務省―地方行政府にも諮る必要があり、公共の道路を占有するという意味で免許よりも一段厳しい特許となります。

とはいえ道路下の空間を利用するものの、実態は高速電車であり、新設軌道(軌道法では道路上の併用軌道に対して道路外の専用路に施設された専用軌道をこう呼ぶ)には実態に応じて地方鉄道に付帯する諸規則を準用することになっています。ややこしいんですが、そもそもは日本初のインターアーバン、阪神電気鉄道の事業特許申請時に、官設鉄道の並行路線ということで、私設鉄道法免許の公布を渋る当局の裏をかく形で軌道法で出願し、担当官吏の「沿線の一部でも道路にかかっていれば軌道法準拠で良いという粋な計らい(笑)で実現し、その後京阪、箕面有馬、大阪電軌、兵庫電軌などが同じ手で事業に乗り出したという大阪独特の事情から、無閉そく運転が基本の軌道で目視による高速運転が行われて大事故に至る危険性に対する制度上の安全弁というわけです。今ほど交通、通信が未発達な中で、地方官吏には往々にして法令の独自解釈がまかり通っていたわけで、ある種一国二制度状態だったとも言えます。表現を変えれば中央集権の綻びが、大阪の発展に寄与したとも言えます(笑)。今流に言えば特区制度に喩えられそうです。

あと特徴的なのが、都市計画法で定義された受益者負担制度が適用された点です。これは都市インフラの整備に伴って発生する受益を得る者に、都市計画事業費の一部または全部を負担させる制度で、地下鉄事業では駅から半径700m以内の地権者に課税する形で、開業後の地価上昇に伴う開発利益を還元したもので、日本では後にも先にも唯一の事例ですが、欧米のLRT整備では当たり前のように活用されている制度でもあり、このことが都市交通整備を遅らせて通勤ラッシュを生み出したとすれば残念な話です。

僅か3.1kmの1期工事区間ですが、堂島川と土佐堀川の2河川を潜り、また3mも掘れば地下水が湧き出す軟弱地盤ということもあり、工事は難航を極めました。加えて昭和恐慌で建設費に募集した市債は札割れとなり、電気事業の収益で財源を捻出するなどして着工にこぎつけましたし、雇用対策で重機類を用いず人海戦術で工事を行うなどしたこともあり、建設費の高騰の原因となります。これが市営地下鉄の高運賃の大元と考えると、おそらく民間事業としては成り立たなかったでしょうし、逆に民間ならばどこかで撤退していた可能性もあり、市営だったから完遂できたとも立ち止まれなかったとも評価でき、功罪相半ばというところでしょうか。

戦後はモータリゼーションの進捗で大阪でも度々渋滞が発生し,特に1960年、北大阪の10時間交通マヒと呼ばれる大渋滞が起こり、市電廃止に世論がなびく結果となります。またこれをきっかけに市電から地下鉄や市バスにシフトする客が増えたこともあり、大阪市電は慢性的な赤字となり、地下鉄整備に併せての部分廃止や一部路線のトロリーバスへの代替、ポイント梃子操作の自動化。ワンマンカー導入などの合理化を進めるも好転せず、1970年の大阪万博に併せて地下鉄網を拡充する一方で、1969年3月31日、最後に残った阪急東口―守口車庫前間と玉船橋―今里車庫前間の運転終了を以て全廃されます。

バス事業でも大阪流はいろいろあります。際立つのは1951年という早い時点でのワンマンカー導入です。いすゞBXD30型ディーゼルボンネットバスを前後2扉仕様とした専用車を登場させました。しかしモータリゼーションの影響は市バスにも容赦なくのしかかり、また地下鉄整備と共に1964年から乗客減に転じ、赤字体質の下、1967年には財政再建団体の指定を受け、合理化努力を重ねますが、状況は好転しませんでした。

そういう中で、1974年にはゾーンバスシステムが導入されます。これは複雑でわかりにくい市バスの運行系統を鉄道駅同士を結ぶ幹線系統と、幹線系統に接続して生活ゾーンを結ぶ支線系統に分離し、運行系統を単純化して定時運行を確保するもので、幹線バスと支線バスは指定停留所で乗り換えを可能とするもので、その後見直しもされましたが、基本的なコンセプトは維持されており、また他の地域でも導入例が見られます。

加えて地下鉄やニュートラムとバスの乗り継ぎ割り引きも導入され、自動車の増加に任せるのではなく、公共交通機関の機能向上を通じてライドアンドライドシステムの構築に動きます。この辺は市営交通である程度地域独占状態にあるからこそ可能な施策でもあり、今後橋下市政で進められるであろう民営化の議論の影響を受けます。

また万博対応の地下鉄建設で地下鉄も収支が悪化し、万博後の整備が滞る中、国に働きかけて営団や公営など公的主体に対する地下鉄補助金制度の創設を求め、結果的に実現しますが、これが逆にその後の地下鉄整備に弾みをつけてしまうことにもなり、この辺の評価も難しいところです。それでも地下鉄事業は累積債務を償還し、公営地下鉄としては初めての完全黒字を実現します。橋下市政で市営交通の完全民営化でも、地下鉄の黒字で市バスの赤字を内部補助する仕組みが考えられており、報道の通りならばあまり変化はないのかもしれませんが、幾つかの問題点があります。

1つは鉄道事業法の特例となっている事項で、鉄道資産のインフラ部分、地下鉄で言えば通路となる地下トンネルや高架橋の固定資産税の免除が適用されなくなる事と、やはり公営交通で免除されている運転士の動力車運転免許取得問題があります。後者は現職者には実態に即して交付されるとしても、今後育成される運転士には国家試験が義務付けられるわけで、1人700万円とも言われる育成費は重荷になる可能性があります。そんな中で10-20円程度の運賃値下げが検討されているという報道もあり、それを人件費の圧縮だけで実現するのは、正直なところ難しいといえます。

というわけで、都市交通の難しさを橋下氏や維新の会のメンバーがどれぐらい理解しているかは不明ですが、単純な民営化だけが解ではないということは申し上げておきます。例えば現行制度では制約はありますが、市営形態を維持したままの民間への運営委託という方法は、欧米の都市交通では普通に見られます。例えば5年とか10年とか期限を切って受託事業者の入札をする形で競争環境を維持するということで、上記のライドアンドライド政策を維持できるなど、メリットがあります。

あとは東京の地下鉄一元化でも言及した運輸連合方式のよる運賃の一元化でしょうか。事業そのものへの参入は自由化するとして、複数事業者間で運輸連合を形成して共通の運賃プールを形成し、客観基準に従って配分する方式などで、運輸連合への参加が合理化のハードルとなることで、競争環境を維持しつつ乗客の利便性を高める手法はあるわけで、形式的な株式会社形態の完全民営化に拘りすぎない方が突破口が見えてくるのではないかと思います。

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