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Friday, December 30, 2011

百年脇役だった都営交通

近代都市大阪が、市の公益事業としての都市交通整備を尖兵として行われた事は、前の記事の通りですが、今年百年を迎えた都営交通の歴史は、脇役に甘んじるものでした。その歴史過程の違いは、そのまま都市構造の違いにも反映されています。

ひと言で言って、東京のまちづくりは首都であることに規定されます。1872年の銀座の煉瓦街もそうですが、中央停車場(東京駅)を皇居和田倉門と対峙する位置に置いたり、中央線の前身の甲武鉄道による電車運転に始まる官営鉄道の電車化や、それに伴う都市機能の郊外への発散などで、全く異なった歴史過程を経ることになります。首都ゆえに水源確保の目的で、神奈川県に属する北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡の東京府移管が行われたりもしており、そういった流れの中で、戦時体制として国の命令で府市統合で東京都となったのが1943年で、以来都制が続きます。自前で地下鉄まで作った大阪市に対して、独自の都市計画で地下鉄整備を打ち出しながら、財政難で路線免許を民間に売り渡すなど当事者能力に疑問符を付けられた結果の国家統制だったわけです。

とはいえ当時の東京は、現在の23区に相当する特別行政区域に6割相当の人口が集中しており、行政組織としてそれなりに合理性があったため、戦時体制といえる都制がその後も続き今日に至るわけで、是非はともかく行政組織としてそれなりに機能してきた事は間違いありません。その観点から言えば、大阪市270万人+堺市80万人=350万人は、大阪府の880万人に対して4割程度の人口シェアしかないわけで、首都でもないしあまり必然性のある行政組織とは言いがたいところがあります。

大阪市は1925年時点で人口200万人を超える大都市に成長していたわけですが、その後地下鉄が整備され建物が高層化して集積度が上がっているにも拘らず人口270万人弱ですから、行政主導で都市交通整備をしてまとまりの強い都市を形成した一方、外延部の発展を取り込めなかった結果、ある種の停滞感をもたらしたと見ることができます。戦後のモータリゼーションは北大阪の大渋滞をもたらし市電に引導を渡すなど、経済発展の方向性が大阪にとっては逆風となったとも言えます。この点は戦後六甲山の宅地造成と残土による海面埋立で土地マジックで発展した神戸市との対比で見れば歴然とします。というわけで「大阪都構想で地域主権」という橋下氏の主張は、大阪の歴史や街の成り立ちを踏まえないという意味で違和感を覚えます。

で、東京ですが、東電・街鉄・外濠線の3社統合でできた東京鉄道を買収して都交通局の前身の東京都電気局となったのが1911年ですから、一応100年の歴史を刻みますが、既に甲武鉄道の電車運転に始まり、私設鉄道国有化後の東京中央停車場整備と山手線、京浜線の電車運転、山手線の環状運転で方向付けされた電気鉄道による高頻度大量輸送が東京の都市交通を方向付け、市電は旧市街地内に留まる補助的な輸送機関に甘んじるわけです。加えて関東大震災で被災し、追い討ちをかけるように民営の円太郎バスの参入、対抗策として市営の青バス事業に参入して乗客争奪戦を演じた結果、市電の経営を圧迫したのは大阪と同じですが、市電のゴールデンラインたる浅草―上野―銀座―新橋には民間の東京地下鉄道の参入を許すなど、大阪以上に競合の激しい状態でした。そんな中で折角取得した地下鉄線の免許を東京高速鉄道に譲渡してしまい、当時郊外私鉄のターミナルとして発展著しい渋谷と都心を結ぶルートも民営の地下鉄に侵食される始末です。その結果当事者能力なしと見られて1940年の陸上交通事業調整法で東京市は、当時の東京市35区エリアの路上交通に限定され、地下鉄は新たに設置された帝都高速度交通営団に委ねられ、東京市の不満の種となります。

その結果、東京都は戦後、地下鉄事業への参入を画策することになります。それ以前に陸上交通事業調整法を戦時立法で無効とする議論が起こり、戦時統合を仕掛けた大東急総帥の五島啓太が公職追放中の1948年、東急から京王帝都、小田急、京浜急行が分離独立し、東京都も無効を訴え、私鉄各社は自前の都心直通線を免許申請するなど、かなり混乱した状態が続きました。

そんな中で東京都は都市高速鉄道5路線を都市計画決定し、国の運輸政策審議会が1号答申でそれを追認したのが1957年。東京の都市交通の骨格を決めた答申だったんですが、東京の都市交通を巡る利権争いの調整の側面があります。国としては都内の地下鉄は営団に一元化したかった一方、都心直通ルートが国鉄線だけだったために、国電の混雑と私鉄ターミナルで国電への乗り換えで混乱していたという事情もあり、郊外からダイレクトに都心へ向かうルートの必要性が認識され、地下鉄と郊外鉄道の相互直通運転が示唆された答申でもありました。加えて財政投融資資金を受け皿とした営団だけでは建設資金に限りがあり、整備に時間がかかるということで、東京都の地下鉄事業への参入が認められた答申でもあります。ある意味東京都としてはしてやったりだったんでしょうけど、地下鉄事業者が2つに別れた原因を作った出来事でもあります。その意味で東京都主導の地下鉄一元化論は原因者によるマッチポンプの側面があるわけです。挙句に九段下のバカの壁を作ったのも東京都です。

水面下の動きは定かではありませんが、営団に一元化したい運輸省、国の現業機関の権限を引き継いで、東京都を格下機関と見て都市計画を無視し続けた国鉄、戦前の怨念と共に地下鉄開業で廃止に追い込まれる都電の職員の配置転換先を確保したい東京都、都心直通を画策する私鉄各社という構図の中で、妥協の産物ではあったようです。

その結果、1号線は東京都と京急、2,4号線は営団、5号線は国鉄を想定しながら未定(後に営団が免許取得して建設)、3号線は戦前開業の銀座線と渋谷―二子玉川園間を東急が建設することで線引きされ、既に営団が取得していた1号線の路線免許は都と京急に譲渡されました。京急は泉岳寺―品川間の分岐線のみの担当ですが、品川のターミナルとしての立地に満足していなかったのか都心直通の意欲が強かったことから都が折れた形です。結果的に1号線(後の都営浅草線)と2号線改め日比谷線が競うように建設されました。以後、答申ごとに路線が増やされ、相互直通の拡大もあり、世界に類を見ない都心と郊外をシームレスにつないだ高速大量輸送交通網が形成されました。結果的には外延部の開発を取り込むことになりましたが、裏を返せば遠距離通勤を助長し勤労者の負担となった点も指摘しておくべきでしょう。

あと国鉄と営団との関係も変化します。上記のように当初事業主体が決まっていなかった5号線を営団が東西線として建設し、国鉄の通勤五方面作戦のはしりと言える中央線中野―三鷹間の高架複々線化事業と連動して相互直通することになります。都を格下機関と見ていた国鉄ですが、通勤ラッシュの混雑緩和を独力で行う事は叶わず、また営団も東急の出資分が返上されて国鉄と東京都に肩代わりされた公共企業体に改組されたこともあり、国鉄の営団の連携が目立つようになります。その結果、地下鉄としては巨大な国電サイズとなった東西線ですが、混雑解消が進まない中、いつしか東京の地下鉄の標準サイズになりますし、また五方面作戦との連動も顕著になります。

一つは国鉄独自に計画した総武快速線は東京都の都市計画を無視した形で整備されましたが、総武線の混雑が完成を待っていられないほどひどい状況になると、国鉄は営団に東陽町止まりだった東西線の西船橋延長を要請し、営団が応じる形で事業化されました。また同じく複々線化が計画されていた常磐線では、当初東京都の都市計画で10路線に拡大された中の8号線として日暮里―喜多見間が計画され、調整不足で一旦キャンセルされた後、綾瀬―代々木上原間の9号線(千代田線)として追加されたのですが、起点を綾瀬としたのは、1964年を境に赤字転落していた国鉄の負担軽減の意味があったと言われます。結果的に北千住―綾瀬間は二重戸籍区間となり、快速が綾瀬通過となって営団がストなどで運休すると松戸で折り返して都心へ向かうことになり、「迷惑乗り入れ」と言われたりもしましたが、国鉄は営団をうまく利用していた一方、同じく出資者の立場にありながら恩恵を植えられない東京都という構図が続きます。

東京都にとっては、5号分岐線(下板橋―神田橋)を分離した6号線(志村(仮称)―西馬込間)に東武と東急から相互直通の申し入れがあり、都市計画により三田以南で1号線と同時施工が予定されていたために、1号線の建設も永らく大門で足踏みしましたし、6号線の相互直通要請を受けて東武サイズの20m級車で建設され建設費が嵩んだにも拘らず、東武、東急双方から乗り入れがキャンセルされるなどの不運もあり、順調に路線を伸ばす営団の後追いに甘んじる結果となります。後から建設される路線は深いところを通す必要もあり、加えて80年代の不動産バブルで建設費も跳ね上がり、ミニサイズの大江戸線でもキロ当たり300億円という高額となります。それでも人口の都心回帰による再開発ブームに乗って、大江戸線自体は順調に乗客を増やす結果とはなりましたが。

というわけで、都営の百年脇役物語は、涙なくしては語れません(笑)。それ以上に東京の都市としての特徴は、そもそも他では見られない国鉄の都市交通への深いコミットメントにあり、結果的に外延部への発散を特徴とするいわゆる大規模なスプロール現象が続いた100年と言えるかもしれません。元々山手線の輪よりも小さかった初期の東京市15区が山手線プラス城東地区の35区に拡張され、更に東京都となって三多摩併合以前の旧東京府が特別行政区となり、戦後北多摩郡の一部が編入されるなど更に拡大し、それに留まらず多摩地区や都県境を越えて神奈川、埼玉、千葉へと拡大し、気がつけば首都圏人口は3,000万人を数え日本の人口の1/4にもなる状況はかなり異常です。

漏れ伝わるところでは、大阪市営交通の民営化の議論では、交通局が郊外私鉄との相互直通に消極的だから東京のように発展できないとして一部路線をトンネル拡張して相互直通を推進する事も検討されていると聞きます。まず費用がかかることと、大阪の街の成り立ちから言えば無意味です。それ以前に国鉄民営化でJR西日本がアーバンネットワークを強化した結果、国鉄時代には太刀打ちできなかった並行私鉄から乗客を容赦なく奪っている状況で、地下鉄と私鉄の相互直通ぐらいで対抗できるというのが無理な話です。国鉄時代は非電化ローカル線だった加古川線まで電化されてアーバンネットワークに組み込まれた結果、神戸電鉄粟生線が存廃の危機にあるように、無意味なパイの奪い合いになるだけです。首都圏は旧国鉄のコミットメントの結果、是非はともかくJR、私鉄、地下鉄が有機的なネットワークを形成できたのですが、それでも混雑が解消しないように、そもそもの需要の濃さが違うわけで、大阪が東京と同じことをして成功する可能性は皆無と断言できます。むしろ適切な役割分担を模索すべきでしょう。

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