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Sunday, May 12, 2013

アベッチの屈辱

聖職叙任権を巡る争いからローマ教皇グレゴリウス7世から破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇が逗留するカノッサの城門前で跪き断食と祈りを捧げて贖罪を請い、破門を解かれたのが有名なカノッサの屈辱事件ですが、見る立場で評価が真逆という意味で、興味深い歴史的事件でもあります。

教皇派は、神聖ローマ皇帝をすら跪かせたとして、その後の支配体制の確立に利用しました。しかし実際は破門を解かれたハインリヒ4世は、破門に乗じて反旗を翻した教皇派諸侯を討伐して王権を強固にすると共に、聖職叙免権を巡る教皇との争いはその後も続きます。西欧中世の宗教支配は、実は必ずしも磐石だったわけではなく、権威の維持に苦心していたわけです。

そして16世紀の宗教改革では、プロテスタントから反教皇の立場から取り上げられ、ローマ教皇庁の権威に水をさすプロパガンダとして利用されました。そして新旧両派の30年戦争を経て1648年のウエストファリア条約で主権国家の枠組みが成立します。同条約が現在に至る国際法の基盤となっているのですが、当事はカトリックとプロテスタントの同権が認められ、ローマ教皇庁の優越性が失われたわけで、ザックリまとめると宗教支配からの自立ということで、対等な主権を有する諸国家間の勢力均衡という近代国家の枠組みが成立します。

重要なのは主権そのものは天賦の自然権のようなもので、教皇庁などの支配になじまないものとして定義されているということで、東アジアのどっかの国じゃないけれど、簡単に失ったり回復したりするようなものではないということは押さえておきましょう。戦前に満州国をでっち上げ、戦後は米軍駐留で施政権をGHQに預けた我が国が、主権に関する重大な勘違いをしていることは明らかです。

ここまでは近代市民社会が成立する以前の話ですが、市民社会の成立と共に主権者を国民とすることが、多くの国の憲法で定義されるようになり、日本国憲法もその例に漏れません。そして主権者たる国民の負託にこたえて立法・司法・行政の三権が主権の行使を分担する機関として定義されているわけですが、その際に国民の基本的人権は犯してはならないとされるわけで、人権は主権の制限を定義する対抗概念という性格を有します。

この際宗教支配に対する自然権としての国家主権が定義されたロジックで、人権も天賦の自然権と見なされます。だからこそ刑事事件の被疑者など、人権を制限せざるを得ない場合については個別具体法で厳格に定義される必要があるというのが、立憲主義に基づく近代憲法の基本的な考え方です。ゆえに憲法条文で人権の制限を定義するというのは、そもそも憲法を知らない議論と言えます。

同様に9条2項の戦力不保持条項と自衛隊の関係も、自衛隊法という個別具体法で、専守防衛という原則を定義して自衛隊のような実力部隊を保持することは違憲ではないということになります。実際には近隣国が脅威と感じる重装備だという指摘もありますが、既に判例が重ねられており、それをわざわざ憲法条文で定義しなおす意義はほぼ皆無です。むしろ9条に限らず行政関連で積み重ねられた判例が、憲法条文を見直すことで無効になって憲法判断をやり直すとすれば、重要だけど不毛な司法プロセスで時間を浪費することになります。条文を見直せば行政執行がスムーズに進むというのは現実的にはあり得ません。この辺は改正の手続法である96条改正を先行させる発想と共に、憲法を通常の法律と同じ地平に置いているとしか思えない発想です。

あと加憲という議論についても無意味と申し上げておきます。仮に時代の変化に伴って新たな権利の定義が必要だとしても、憲法の理念に沿ったものである限り、XX基本法といった類の法整備によって、概念の拡張をするのが立法府の役割であるはずです。例えば交通基本法であれば、交通権という権利を憲法で定める基本的人権の具体論として政府や自治体に尊重させるといった論理体系となるわけです。憲法理念の拡張としての基本法、憲法理念の例外事項としての個別法という基本を立法府が認識できていないことが、憲法改正の議論から垣間見えます。

維新やみんなが言う地方分権や道州制に絡んだ改憲論についてですが、確かにアメリカやドイツのように連邦政府と地方政府の役割分担を憲法で明記することで、とかく骨抜きにされやすい地方分権の議論の実効性を高めるという議論はあり得ます。実際戦前は国の出先機関だった都道府県が地方自治体となったのは、戦後の地方自治法施行によりますが、平行して中央官庁が地方局を開設し、権限を渡さなかったわけですし、昨今の地方への権限委譲も掛け声ばかりで進んでいない現実があります。

それを改善するためという名目で、現行の都道府県よりも広域を管掌する道州に再編して地方局の権限を渡そうとする構想が度々浮かんでは消えしていますが、実際は道州を実質的な国の出先機関にしたいというのが本音です。真の地方自治はやはり基礎自治体である市町村の権限強化が本筋です。敢えて憲法で明文化するとすれば、EU憲章で謳われている補完性原理の明文化でしょうか。いわゆる二重行政三重行政の抑止の理念を明記するというのはアリです。しかし憲法を変えなければできないという話でもないわけで、むしろ立法府による行政府のチェック機能が弱いことが問題です。だから増税までして得た復興予算を簡単に流用されて平気なんですね。

というわけで、立法府がちゃんと機能していれば、憲法がどうあれ解決できる問題は多数あります。だから憲法改正なんてくだらないことにリソースを投入する暇があるなら、被災地の復興をちゃんとするとか、年金や医療保険などの社会保障改革をまじめにやるとか、課題はたくさんあります。これらを脇に置いて憲法改正もないもんです。どう見ても不真面目としか思えないです。例えばマイナンバー制度です。

マイナンバー衆院通過 社会保障・税、16年から一元管理  :日本経済新聞
これ民主党政権時代に、消費税増税に伴う低所得者対策として給付付き税額控除を行う前提で閣議決定され国会に法案が提出されたものの、衆議院の解散で廃案になったものです。そして自公政権では低所得者対策は軽減税率で行くという方針のはずです。本音はその方がいろいろな業界に睨みを利かせやすいからですが。自ら軽減税率を求める新聞業界は進んで権力のイヌになりますと宣言しているようなものです。ということは、廃案となった法案をわざわざ復活させる意味があるのかという疑問があります。

一応、行政サービスの一元化、ワンストップサービス化のためと説明され、社会保障給付の申請などが簡単になるということですが、似たような説明は以前にも聞いた覚えがありますね。住民基本台帳カードの導入のときも似たような説明がされましたが、個人情報の扱いを巡る疑義から世論の反対に遭い、希望者への交付とした結果、実績は惨憺たる結果となりました。とはいえ制度としてのインフラは整っているわけですから、法令の個人情報保護条項を見直して相乗りする方法もあったはずですが、所轄が総務省ということで、財務省と厚生労働省に跨るマイナンバー制度は別建てというアホらしさです。喜ぶのはシステム導入で潤うITゼネコンだけか。

歴史を遡れば1984年1月からの導入を目指して大型コンピュータを置いた計算センターまで作りながら、郵政、金融、自治労などの反対で潰された少額貯蓄等利用者カード、通称グリーンカードが思い出されます。元々は利息や配当などの資産性所得を捕捉して総合課税する構想で、当時の大蔵省と社会党がタッグを組んで進め手法案の国会通過までは進んだものの頓挫し、1985年に議員立法で廃止されたものです。そんなこともあってマイナンバー制度は、銀行や証券の口座や保険などの名寄せには使わないことになっていますが、そんなカードを強制交付するんですからますます意味不明です。既得権にも切り込めず、無駄な財政支出で国民の個人情報を質に取るだけというろくでもない代物ですが、メディアの扱いは小さく、黒田日銀漢和フィーバーに浮かれた紙面に埋没しています。

消費税転嫁問題でも揉めてます。

消費増税時セール「実質容認」、小売りは一定評価  :日本経済新聞
IC乗車券の運賃1円刻みに 鉄道各社が検討  :日本経済新聞
一見無関係な2本のニュースですが、消費税率アップで下請け企業が消費税分の価格転嫁が困難という批判に対して、政府は転嫁を認めるよう働きかけているわけですが、その中で取引先の負担になるという理屈で消費税還元セールの禁止を打ち出したのですが、当然のことながら反発に遭い、消費税の文言を使わなければOKと実質容認したわけです。これは以前にも指摘しましたが、元々インボイスを用いない日本の消費税制度で総額表示をしようとすれば起こる問題なんで、制度設計の瑕疵といえるのですが、それに目をつぶって消費税率アップを行うことが問題なんです。

インボイスで課税仕入れ税額を証明できれば、消費税負担は課税売り上げ税額との差額であり、電気料金や燃油代などと同じ様々なコストの一部に過ぎないわけで、納税義務者である事業者の価格政策の中で消化される問題なのに、小額売り上げ事業者の簡易課税制度の導入のために帳簿方式とし、非課税事業者も含めて課税仕入れのみなし課税控除を制度化した結果、課税仕入れ税額があいまいになったkとが、下請け企業へのディスカウント圧力となっていることが問題なんです。それが結果的に価格転嫁を難しくしているのですが、今回は5%→8%→10%と2段階の小刻みなアップですから、より一層価格転嫁を難しくしているのです。せめて1段階で一気に10%にアップするのであれば、価格転嫁はやりやすいのですが。

で、価格転嫁の困難性は下請け中小零細企業の問題として注目されたわけですが、ICカード乗車券というシステムの問題で鉄道運賃の価格転嫁が難しくなっているという皮肉な出来事が同時に起きているわけです。こちらはシステムの大規模改修を伴うため、2段階の値上げはそれ自体がコスト要因ですので、鉄道会社としてはせめて処理が複雑になる10円単位の切上げ切捨て処理を省きたいのが本音です。とはいえ券売機で販売される紙の切符では、1円玉5円玉の処理が可能なコインシステムに切り替える必要があり、それ自体が多大なコスト負担を強いられるので、こちらは10円単位処理としたいというわけで、事業者の都合で乗客側には不合理な二重価格が押し付けられるわけですから、これは認めるべきではないでしょう。

実は消費税問題で涼しい顔しているところもありまして、家電量販店業界では、従来の消費税導入や3%から5%へのアップの時も、いずれもポイント付与率で調整して価格を据え置くということをやっています。今回も同様の対応となるようです。こうなるとICカード乗車券が乱立している現状が恨めしいところで、各社それぞれの事情でシステムを構築し、特に自社ハウスカードとの連携によるポイント付与をばらばらにやっている現状では、同じ手は使えないわけです。

全国共通利用も国が音頭を取らなければ進まなかったし、エリア越境をブロックするシステムの仕様も、乗客の利便性はどこ吹く風ですから。この辺は鉄道事業者の悪い癖というかなんというか。そういえば仙台エリアでPASMO所持してエリア外のローカル線ワンマン列車で、無人駅で下車時に運転士と揉めているのをGWに目撃しましたが、適用エリアの限られる地方都市権では笑えない話です。ま、これを奇禍に運賃やシステムの共通化が進むのであれば怪我の功名にはなりますが。いずれこの問題は項を改めて取り上げたいと思います。

で、冒頭のカノッサの屈辱の第三の評価軸というのがありまして、ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクは、ドイツの屈辱として国民意識を鼓舞しました。憲法を占領軍による押し付けとし、従軍慰安婦問題は韓国の捏造で、中国は尖閣のみならず沖縄にまでちょっかいを出すと憤る誰かさんに、アメリカから陰に陽に圧力がかかっているようです。最近のトーンダウンはどうもそういうことらしい。アベノミクスの評価も分かれているし、TPPでアメリカに媚を売ってもあんまり褒めてもらえないしというわけで、いつ鬼畜米英を言い出すか。戦前と状況が似てきていると感じるのは気のせいでしょうか。

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