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Sunday, August 02, 2020

北へ届かなかったひかり

両親ともに見送った身ですが、父は誤嚥性肺炎による心肺停止、母は老衰による多臓器不全で、ともに天寿を全うしたとは言えますが、最後は苦しそうで、眠るように安らかとはいかない現実を見てきました。特に母は食物の経口摂取が困難な状況で、医師から胃ろうを勧められたのですが、当時あまりに不自然な延命処置としか思えず断りました。

冷静に考えれば既に食べる行為そのものが本人にとっては苦痛だったかもしれず、緩和ケアとして捉えられなかったのではないか?これって健常者の発想でしかなかったのではないか?という疑問が残ります。既に後の祭りですが、その想いを生き残った者として抱いていくしかありません。生きる苦しみは終末期の高齢者や難病患者だけの問題ではありませんが、せめて近親者が気持ちに寄り添うしかありません。本人が「死にたい」と漏らすのはそんな過酷な生の現実こそが問題なんであって、QOL問題と整理できます。「死にたいなら楽に死なせてあげましょう」は解決策ではない訳です。

医師による嘱託殺人事件の問題は、死後の本人に「死んでよかったか」を問うことができない不可逆性にある訳で、故に倫理にもとることなんです。それを「これをきっかけに安楽死、尊厳死の議論を深めよう」という政治家が現れる不快な現実があります。こんな奴ら次の選挙で落としましょう。生きることにこそひかりが届くことが大事です。リモートよで触れたスウェーデンの社会的トリアージと言える高齢者への医療制限は広範な社会的合意の産物であって、安楽死や尊厳死乗り\議論とは別物ですので念のため。

てな重いテーマは置いといて、東京駅新幹線ホームの内、東海道新幹線用の第7ホームが東北新幹線に寄り添うように北へ向かってカーブしていることから始めます。第7ホームは元々東海道線の長距離列車の発車ホームとして新幹線開業前の特急、急行の乗客が大きな鞄を持って乗車待ちしていたところですが、新幹線開業後も残った急行列車や夜行ブルートレインが使い続けていて、独特の雰囲気がありました。

一方、全国新幹線鉄道整備法に基づく東北、上越、成田の3新幹線が1971年に基本計画線として公示され翌年整備計画線に昇格し、東北新幹線は国鉄が、上越、成田新幹線は鉄道建設公団が建設を担当することになり、整備計画が策定されますが、当初計画では起点は東京駅、終点は盛岡駅で既存駅併設とされ、東京駅に関しては首都圏五方面作戦で横須賀線横須賀線分離で空く6番ホームと新幹線の利用拡大でいずれ不要となる7番ホームを新幹線用に転用することが計画されました。

結果的に東海道新幹線に2面4線、東北新幹線に2面4線を割り当てると同時に、南側は東海道新幹線に繋いで4面8線中5線を東海道と東北を直通できる構造として新大阪のようにスルー運転する計画でした。直通客を当てにするというよりは、折り返し運転で避けられないホーム在線時間の短縮が狙いということで、故にAC25kv50hzの東北新幹線ですが、東京駅北方にデッドセクションを設けて東海道新幹線の60hzと電源切替するとして、車両側も2電源対応とする計画でした。実際200系は2電源でした。

早速事業着手した国鉄の当時のキャッチフレーズは「ひかりは北へ」でした。また当初東京の次の駅は大宮で、上野は駅設置を計画されていませんでした。また大宮以南は新宿起点とされた上越新幹線の大宮以南の事業化を先送りすることで、当面大宮以南は東北と上越の共用とされました。つまり山陽新幹線と同様に東海道新幹線の延長線として計画された訳です。

おそらく山陽区間のwひかり、Aひかり、Bひかりのように、主にひかりを延長するイメージだったようです。Wひかり相当の速達列車はNひかりだったかも。故に速達列車が必ず停まる仙台、盛岡と上越の新潟を除く各駅は通過線を持っていました。Nひかり(仮)の停車駅は東北は仙台のみ、上越はノンストップで、Aひかりは東北が大宮、宇都宮、郡山、仙台以遠各駅、上越が大宮、高崎、越後湯沢、長岡、燕三条、Bひかりは全駅停車として東北は仙台止まりとして段落としで輸送力調整というところでしょうか。

ところが誤算だらけで、73年のオイルショックによる不況で総需要抑制策による工事自粛による遅れと、所謂狂乱物価と呼ばれた物価上昇で事業費の膨張という逆風を受けます。加えて東海道新幹線名古屋騒音訴訟問題で新幹線の騒音問題が意識され、東北新幹線沿線各地で反対運動が展開されます。故に人口密集地の荒川北岸から大宮駅までは地下トンネルで計画されたものの、軟弱地盤で地盤沈下の恐れありと反対され、別ルートの高架案で通勤新線併設として埼玉県に提案しますが、埼玉県は認めず、工事の遅れが膨らみます。

一方で東海道新幹線の需要が堅調で東京駅の処理能力が限界に達したため、東北新幹線用に考えられていた7番ホームの東海道新幹線転用により、東北新幹線の受け入れ余地が狭まります。そのため国鉄は計画を変更して上野に2面4線の地下駅を設置してサブターミナルとするための工事実施計画変更が1977年に行われます。大宮以南の計画が大きく変わった訳です。

他方首都圏五方面作戦の誤算もあり、反対運動で遅れた東海道貨物線の建設による横須賀線の分離運転は1980年にやっと実現しますが、東北方面は大宮以南の客貨分離と電車線列車線分離は実現したものの、大宮以北の中電区間の開発が活発な一方、東北、高崎両瀬が合流する大宮以南の線路容量の限界で混雑が年々激化し、1973年3月に上尾事件が起きるなど深刻化しておりました。

その中で一旦県が却下した東北新幹線併設の通勤新線に期待が集まり、新幹線の騒音振動対策の強化と引き換えに高架案を県が認めるに至ります。但しルートは人口密集地を避けるため600Rなどの曲線が連続し、元々110km.h制限がかかる上、線路沿いに緩衝帯を設けたり防音壁を設置したりとコストのかかる構造になりましたが、逆にだから通勤新線の併設も容易ではありました。

後に埼京線として開業する通勤新線ですが、当初上尾事件の影響もあって高崎線宮原まで建設し高崎線の都心ルートとする構想で、武蔵浦和付近に車両基地を建設する計画が、用地買収難で断念され、代わって都市近郊の非電化線で残っていて開発余地が大きいと見なされた川越線の電化とセットで同線南古谷駅に車両基地が作られました。結果的に宮原延長は断念され、埼京線は川越線と直通することになった訳です。中電の都心ルートとしては貨物線を利用した赤羽折り返し列車の設定に始まり湘南新宿ラインとして実現することになります。

こうして大宮以南の工事は特に遅れた訳ですが、大宮以北の工事進捗で1982年に大宮起点で暫定開業し、上野―大宮間に185系200番台の新幹線リレー号で繋ぐというツギハギだらけのスタートでした。上野開業は1985年で埼京線っも同時開業しましたが、103系が轟音を轟かせていて新幹線の騒音対策の筈が新幹線より五月蠅いという笑えないオチも。

この状態で1987年の国鉄分割民営化を迎えますが、新たな問題の出現でもあります。開業済みの各新幹線は新幹線鉄道保有機構に移管され、東海道をJR東海、山陽をJR西日本、東北、上越をJR東日本にリースし、リース料に旧国鉄債務を一部乗っけて債務圧縮を図ることになりました。この時点で工事中だった東北新幹線の東京延長は機構に継承されて継続されたものの、上記の東京駅の利用区分問題が浮上します。

JR東日本としては当初計画に則って6番ホームの新幹線移転と同時に、東海道新幹線で使われていた7番ホームの移管を主張したものの、JR東海はこれを拒否します。また両新幹線の直通運転もJR東海の反対で実現せず、現状のように双方が折り返し乗客が乗り換えるという利便性を損なうものになりました。同時に折り返しによる在線時間の長さは地価の高いターミナル駅の有効利用の観点からも問題ですが、両社の主張は平行線のまま、別々の道を歩むことになります。ひかりは北へ届かなかった訳です。

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